『LIFE SHIFT(ライフシフト)ーー人生100年時代の人生戦略』(2016年)を著したロンドン・ビジネススクールのリンダ・グラットン教授は、米国やフランス、日本など先進工業国で生まれる人は、近い将来、半数以上が100歳を超えて生きると予測します。
これまでの「20代前半で教育を終え、仕事をする40年。65歳前後で退職。リタイアして20年」(「学校→仕事→引退」)という人生の基本設計が崩れるため、複数で多様な(マルチ型の)人生設計、つまり仕事や生活の新しいスタイルを、と提唱しています。
技術の進歩がライフシフトを促進します。新型コロナによるパンデミックで分かったことですが、多くの会社人間は、オンラインによる自宅勤務や労働時間の短縮で、それまでと同じかそれ以上の成果が出せることを実感しました。「出社する」「打ち合わせる」ことを含め仕事のスタイルが大きく変わりました。
これまでの仕事のあり方だけでなく、人生観や職業観、教育観が古びたものになりそうです。では、どのように新時代を迎えればよいのでしょうか。「人生100年時代」の学びのあり方について考えましょう。
《マルチステージ型の人生》
これまで人生のステージは「教育」「勤労」「引退」(学生時代、職業時代、老後)に分かれていました。これは「人生80年」と言われた時代のざっくりした共通認識です。
しかし、医療技術の進歩、栄養知識の普及、生活習慣の向上への啓発などのおかげで、「生活の質(QOL=quality of life)」を重視する長寿社会が実現しています。
会社を60代で引退したあとも多くの人が自由でいられる時間が長くなりました。これは、働く(働ける)時間が長くなたことを意味します。
言い換えると、「学校→仕事→引退」という順番で人生を歩む時代は終わり、生涯に複数のキャリアを持つことが普通になる、つまり「マルチステージの人生」が当たり前になるとグラットン教授はいうのです。
マルチステージのあり方は多様です。
「ボランティア活動に従事する」「起業する」「趣味に生きる」「新たな会社に勤める」「組織を離れて、フリーランスの仕事をする」「海外短期滞在をする」「リカレント教育を受ける」「旅行を人生とする」「複数の生活拠点持つ」などがそうです。
しかも、これを2つも3つも、場合よっては全部、実行することが可能です。まさしく「マルチ」です。
《「この道、ひとすじ」が困難に》
このような時代では、これまでの「学校→仕事→引退」に合わせて設計されていた社会制度は機能不全に陥りそうです。なので、今後は「マルチステージ型」に移行するために個人、企業、政府が一体となって課題解決に当たる必要があるでしょう。
まずは、60代、70代の人が「学び直しながら、働ける」社会を実現することが求められます。
日本で、「リカレント教育(社会人大学などの教育機関での学び直し)」や「リスキリング(企業が事業戦略のために従業員に学ぶ機会を作ること)」が言われるようになりましたが、「学校→仕事→引退」という単一モデルからの脱却が背景にありそうです。
リカレント教育(文科省が主導)もリスキリング(経産省)も日々進歩する技術、複雑化する社会への対応が基本にあります。
実際、自分が蓄えてきた知識やスキルだけで、新しい仕事や労働環境に向かっていくことは困難です。
「この道、ひとすじ」という生き方はかなり限定されるように思います。技術革新ゆえに、今ある仕事そのものが大きく縮小する、場合によっては消えてしまうこともあります(ロボットや人工知能が既存の仕事を奪っていく状況がこれに相当します)。
グラットン教授がいうように、「学校→仕事→引退」という順番で人生を歩む時代は終わり、生涯に複数のキャリアを持つのが当たり前になるのかもしれません。
《定年後の40年。社会全体の課題》
新しいステージに合わせたスキルや知識が必要になりそうです。で、あれば、絶えず学び続ける必要があります。
グラットン教授と別の角度から高齢化社会への提言をするのが寺島実郎さんです。多摩大学学長で、日本総合研究所会長の寺島さんは、60歳前後で定年退職した人が、あと40年を生きる時代に、これまでの「余生」「第二の人生」という考え方に決別することの重要性を説きます(『ジェロントロジー宣言 「知の再武装」で100歳人生を生き抜く』2018年)。
寺島さんは「高齢化で劣化する人間」という見方に否定的です。
「知の再武装」という言葉を使って、人生のどのステージにおいても「学び」の重要性を強調します。
これまで、人生の後半において歳を重ねることを「下り坂」と表現されることが多かったと思います。だけど70代、80代でも「劣化」「弱体化」と関係なく活動している人がたくさんいます。
退職後に「40年」を能動的に過ごすかどうかは、個々の人生だけでなく、社会全体にも大きなインパクトを持つテーマだ、というのが寺島さんの主張です。
他方で、自分で「もう年寄りだし」「あとは余生を送るだけ」という思い込みは問題かもしれません。自分で自分を閉じ込める必要はありません。「下り坂」「年寄り」「余生」「いい歳をして」という言葉が私たちに刷り込まれているだけかもしれません。
「自分は年寄りだし」と思った瞬間に年寄りになるのではありませんか。
《年齢には意味がある》
確かに同じことを続けて、若い人と競争すると結果は悲しいものになるかもしれません。だけど、歳を重ねた人には若い人が持っていないパワーがあるではありませんか。
例えば、日本では(あるいは他の国でも)人脈やコネが幅を聞かせるので、若い人をサポートすることに大きな価値があると思います。私は新しい世界に飛び立つとき、いつも先輩のさりげない一言や助言が背中を押してくれました。「あ、そんな考えがあるのか」ということですね。
孔子は「三十にして立つ。四十にして惑わず。五十にして天命を知る」と年齢には意味があることを説いています。確かにそうだと思います。50歳にならないと分からないこと、できないことはあるし、60歳、70歳でも同じでしょう。
「若さ」が全ての力を備えているわけでは決してありません。
(2023年11月18日。宮武久佳)
私の祖父は、明治末期に四国で生まれました。当時の尋常小学校(年限は4から6年)を終えるか終えない頃に丁稚奉公に出されました。当時は男子は丁稚に、女子は女中に出されるケースが多かった。実力者か教員の家にでも生まれなければ、100年前の日本はそんなものだったのでしょう。
「経営の神様」と呼ばれた、パナソニック創業者の松下幸之助氏(1894-1989年)も家が倒産したこともあり、当時の学校を9歳で中退して丁稚奉公したそうです。
アジアや中東で大ヒットしたNHK連続ドラマ「おしん」(1983-84年)はそのころの奉公や女中のありようを描いています。
私の祖父は80歳を超えるまで生きましたが、学校にいたのは10歳ぐらいまでで、あとはずっと労働の日々です。奉公を終えると、大阪で小さな店を開き、晩年に病気で引退するまで仕事をしていました。
生前、祖父は孫の私たちに「学校に行って何になる。学校に行ってもロクなことを学ばない」と言います。
だけど、祖父は字が上手でした。年賀状はすべて毛筆でしたし、小学校しか出ていないのに、正月の「百人一首」を全部そらんじることができました。そろばんも暗算も早かった。今にして思うと、人前で挨拶したり、口上を述べたりすることもうまかった。
奉公先で学び続け、「見よう見まね」をする機会も多かったのでしょう。
祖父は小学校で学んだ「読み書きそろばん」を元手に奉公先で仕事をし、自分の才覚を頼りに必要な知識と教養を身につけたのでしょう。
《学校で学ぶことが増えた》
技術が発達した今では、学ぶことが多く、小中高大だけでも足りないぐらい学ぶことが増えました。現代版の「読み書きそろばん」のあり方も多様で、複雑です。
今は「読み書きそろばん」でなく「リテラシー」という言葉がこれに相当します。リテラシーは「自分の時代を生きるための最低限の教養や情報スキル」を指します。
祖父の頃では、10歳ぐらいで終えた「読み書きそろばん」は、今では高校時代までの各教科の習得がこれに相当するでしょうか。高校での全教科を頭に入れるだけでも大変です。だけど、どんな道に進もうが、社会に出るということは、高校時代までの教科内容を身につけていることが望ましい、ということでしょう。
この意味で、「読み書きそろばん」そのものが、祖父の時代と現代とでは比べ物にならないぐらい、習得に時間とエネルギーがかかることが分かります。100年前であれば10歳で習得できましたが、今では高校を終えても、生きていくためのリテラシーを身につけることが難しいのです。
これにインターネットやデジタル端末の操縦術が加わります。過去30年ほどのインターネットの影響は強烈です。DX(デジタル化による変革)が生活のすみずみに押し寄せてきています。身近な例では、スマホやカードがないとコンビニも都市交通もうまく使えなくなりました。
私が日々、大学生と接して感じることは、今の大学生は私の時と比べて習得すべき知識や教養の量がとてつもなく多いということです。だから、たいてい未消化のまま次のステップに進んでいます。
AI(人工知能)やロボットが社会のあるゆる分野を支えているこの時代、「学び」の見地から新たな考え方も出てきました。
《労働期間と教育期間が逆転する》
知能を持ったロボットを研究開発する大阪大学の石黒浩教授は「仕事をロボットや人工知能(AI)が片付けてしまう時代では、学びの時間が伸びる一方だ」と指摘しています。
ロボットやAIを操作するには時間がかかる上、技術が日々進歩するので「学び」をサボるわけにいかないということのようです。
石黒教授は「人生で教育期間と労働期間が逆転する。人生の8割を教育に費やし、残り2割の期間で仕事をする、ということになる可能性がある」と言います(『人とは何か アンドロイド研究から解き明かす』NHK出版)。
技術を開発し、改良し、伝承することは簡単ではなく、専門の知識を充実することがこれまた時間とエネルギーのかかる作業なのです。
生活レベルで、デジタル時代をうまく泳ぐには、絶えざる「学び」が必要なのは多くの人が感じていると思います。これが専門の仕事レベルとなると、日々アップデートされる技術に注意をしないと、「遅れた人」になってしまいます。
例えば、コロナ感染が拡散する2020年以前では、オンラインで授業ができる先生も生徒も本当に限られていました。しかし、今、日本のどこでも、オンライン授業が当たり前にできるようになりました。
私の時代で言えば、私が入社した1980年代の前半ではワープロもパソコンもありません。したがって職場では、キーボード入力できる人は、タイプライターの経験がある人を除けば、ほとんどいませんでした。いまでは、パソコンのキーボード操作ができないとどんな仕事でも成り立ちません。
《変化し続けるビジネス手法》
スマートフォンの操作でも、うっかりしていると、新しい使い方がいつのまにか広がっているものです。
私の受け持ちの学生には少し年が離れた中学生の弟がいます。その学生が曰く、「弟のスマホの使い方は神業に見える。検索が早い。わずかの操作で必要な情報を手に入れ、友人との通信もあっという間に終えている。私にはできないことばかり」。
現代版の「読み書きそろばん」は複雑になり、習得するのは簡単ではありません。若い世代が有利です。同時に「前の(年長の)世代」にすれば進みゆくデジタル化の影で、従来の技術が使えなくなるというマイナス面を抱えます。
多くの企業が、世の中で起きる技術革新を従業員に習得させることがますます重要になってきています。「研修室」「研修センター」を設置し、仕事のデジタル化を円滑に進めることに注力していますが、時代の先端に触れることは難しい。
テクノロジーだけではありません。
デジタル化が変える社会、ビジネスのあり方の啓発も盛んです。講演やセミナーに出かけると、どこも会社員や公務員でいっぱいです。カルチャーセンターも大流行りです。
「コンプライアンス」「コーポレートガバナンス」「ハラスメント予防」「アンガーマネジメント」「グローバル時代の人権意識」「リーダーシップと多様性」など、今の時代を生きていく上で「知らなかった」ではすまされないトピックが目白押しです。
ビジネス環境やビジネス手法が変化し続けます。
ところで、石黒教授によると、ロボットの研究開発を進めれば進めるほど、人間とロボットとの境界がどうなっているのかについて考えざるを得ないとのことです。犬型ロボット「アイボ」をペット同様に家族の一員と感じている人は多いものです。
人生100年時代、もしも落ち着いて「人間とは何か」「心とは何か」を考え、他の人から学ぶ余裕が増えるならば、効率主義一辺倒でない、新たな人間像を持つことができるのではないでしょうか。
石黒教授が予想するように「人生の8割は教育に」は現実味があります。
(2023年11月18日。宮武久佳)
私は現在、実務家教員(社会人教授)として大学で教えています。都心の大学では「リカレント教育」(文科省の用語)と呼ばれる社会人の学び直しを積極的に実施しています。
他方、職員や従業員が学び直しを通じて新しいスキルを身につけ、発想を刷新する「リスキリング」(経産省の用語)を奨励する企業や省庁が増えました。
SNSの時代において学び方が大きく変わりました。「学び方」そのものも模索すべき対象と言えるでしょう。「学び方」と「学ぶ力」が重要になってきます。教室で前に教える人がいて、多数の学ぶ人に対面する座学の教室スタイルがいつまで通用するのでしょうか。
現時点においてYouTubeによる学びは重要視されるものだと私は感じています。ありとあらゆる分野のトピックについて、世界中の人が知識を提供しています。玉石混交は仕方がないですが、上手に探せば、本当に効率よく、必要な知識が短時間で得られます。
その道の専門家が、10分や15分単位で、必要で十分な講義を提供しています。有料のものも無料のものありますが「学び」のあり方として、今後脚光を集めると思います。
私は試しに、西洋音楽の「ソナタ形式」について調べたことがあります。いくつもの優れたYouTubeに出会いました。
実際の楽譜が音楽の進行とともにハイライト表示されて、文字通り視聴覚教材としては、理想的なプログラムでした。これは、先生がピアノを弾きながら教える対面の教室の授業よりも効果があると思いました。しかも、無料です。理解できるまで繰り返し視聴できます。
線形代数も熱力学も、金融資本論も、フランス革命も、地理言語学も、YouTubeで効率よく学ぶことができます。
こんな時代に私たちは生きています。教育機関はうまくYouTubeのようなオンライン講座を取り入れてほしいところです。柔軟な変化が必要なのではないでしょうか。
また、学問内容によりますが、人々が職場と大学を自由に往復できる仕組みが欲しいな、と私は感じています。
同じような年齢の人間で構成される日本の大学の授業はまるで高校の延長です。人は人から学びます。教室に一人でも社会人がいると間違いなく授業は活気づくことを、多くの教員が知っています。
《大学と社会》
人生は長く、常に変化し続ける世界で、仕事やライフスタイルを時おり、変えることが良いと思います。会社員や公務員、教員、団体などの職員、フリーランサーなどあらゆる大人にとって学び続けること、学び直しの必要性を痛感します。
私自身、学部時代は美学や芸術学を学ぶ「アートの学生」でしたが、共同通信に入社して最初に配属されたのは国際経済や金融情報を日本語で速報する部署でした。その後、事件・事故など突発事件を扱うことの多い社会部を経験して、一番長くいたのは、日本で起きることを広範にカバーして英語で発信する国際部門でした。
もともと美学・芸術学という実利から程遠い人文科学系の大学院(修士)を出た私が、株価と外為と債券の関係を知ったのは入社一年目のことでした。それまで敬遠していた「日経新聞」が一挙に生活の中に入って来ます。警察組織を知るようになったのは、事件・事故が取材対象になってからでした。
25年間の報道キャリアの後、大学教師に転身しました。記者の仕事をしながら2回、大学に通いました。一度は海外留学、もう一度は社会人向けの夜間プログラムです。「リカレント教育」という言葉がなかった時代です。
これらの学び直しを経ていなかったら、私は定年まで同じ会社で働いていたと思います(それはそれで良かったかもしれませんが、学べば学ぶほど外に飛び出したいと思っていました)。結果的に、私は学び直しを生かして転職しました。
私は人と会って話をすることが好きです。出口治明さん(立命館アジア太平洋大学学長)が言うように、良いアイデアは「人・本・旅」から得られる(『還暦からの底力―歴史・人・旅に学ぶ生き方』)ことを、私も実感しています。
さらに、芸術やエンタメが私たちを豊かにし、勇気づけること付け加えておきましょう。
ひとつの映画、ひとつの音楽、舞台、小説で「そんな手があるのか」と他人の人生を知り、自分を再発見することができます。自分が変わるのです。進路を変えるヒントもあります。この意味で、芸術体験も「学び」だと思います。
《人生100年時代の大学》
最後になりますが、人生100年時代の今時の大学生の「学び」について考えてみます。時代を生きるためにリテラシー(現代版「読み書きそろばん」)を充実させるために、よく練られた「教養教育」の充実が大事ではないかと思います。
他方で、自分のやりたい専門がある学生には、専門科目をどんどん学ばせる仕組みも欲しいところです。日々進歩するテクノロジーを享受しながら、ゲームに夢中になるように、学生は勉強に夢中になってほしいというのが私の本音です。教員を凌駕する学生がどんどん出てきてほしい。
教員についてですが、最近では、大学教員が学ぶ機会も増えました。どの大学も「ファカルティーディベロプメント」(FD)と呼ばれる教員研修の機会を取り入れ、教員のリスキリングを実施しています。
「オンライン教授法」や「効果的な講義の運営方法」「各種ハラスメント予防策」などの座学の機会は確かに増えています。大きな大学なら内部でその道の教員が担当することもあれば、コンサルタントや弁護士など外部から講師を招くことも普通です。人気講師ともなれば、全国の大学から声が掛かります。
しかし、大きな視野に立った、大学や大学教員のあり方については、まだまだ「学び」の機会が欲しいところです。誤解を恐れずに言うと「教員こそリカレント教育やリスキリングを率先して体験すべきではないか」というのが私の本音です。
そのような経験や気づきを通して、自著『「社会人教授」の大学論』で6つの「提言」を挙げました。
《提言1》在学期間10年を標準に――学びながら働き、自己実現と社会貢献を
《提言2》17歳以下でも大学入学を――研究志向の人はどんどん先に進め
《提言3》社会人学生の特別枠を増やせ――「今から大学生になりたい人」歓迎します
《提言4》社会人に小中学校の教員養成プログラムを――教育への職種転換の道を開く
《提言5》地元・地域のカルチャー拠点に――地域通貨で大学の活性化を
《提言6》本気で地域間の連携を――ネットワーク空間と移動空間で生き延びる
大学はさまざまな問題を抱えています。
純粋な研究機関として大学について、私は経験不足であり、きちんと取材していないため、語ることができませんが、大学には改善すべき点がいくつもあると思います。
そうは言っても「大学の課題」はほとんどの場合「社会の課題」であると私は感じています。
「みんなの大学」「社会の中の大学」という視点が必要だと思います。
他方で、現在の大学生を観察し、付き合ってまとめたのが、若い世代向けの『自分を変えたい 殻を破るためのヒント』(岩波書店。2021年)です。当世の大学生気質を読み取っていただければ、と思います。
(表紙イラスト:西野カイン)
(2023年11月18日。宮武久佳)
今からお話しすることは、緊急性が高い、深刻な問題を含んでいるように思います。それは、ロボットやAIが進化し続ける時代は、新たな格差社会の時代でもあるという予測が成り立つからです。極端な格差は、市民社会の以前の、王侯貴族が支配層だった時代を思い起こさせます。すでに現実味があるように思います。
《ロボットリテラシーの高い人、低い人》
テクノロジーがさらに進化すると、「読み書きそろばん」のリテラシー(知識、教育の素養)のレベルが上がり、学ぶ内容が増え、教育期間が長くなる一方だと述べました。石黒浩教授はによると「人生の8割が教育に2割が労働に」ということでしたね。
現実をみると、60歳代でリタイア(定年退職)した人の半分以上は、何らかの仕事をしています。しかし、正規社員(職員)のころの賃金の半分、もしくは以下の場合が多いのです。
現状を未来に当てはめると、「人生の8割が教育に2割が労働に」が本当に実現するのでしょうか。本当は、資金面で余裕のある人だけが「学び続ける」ことができ、そうでない人は、学びたくても、生活費を稼ぐことに追われ、「生きていくのが精一杯」ということになりかねません。格差が厳然と存在し、格差の状況はますますひどくなるかもしれないのです。
ロボットやAIを作れる、使える素養を「ロボットリテラシー」とすると、ロボットリテラシーの高い人と低い人は、そのまま賃金の差につながり、この格差は、「学び続けることのできる人=金持ちの人」と「そうでない人=貧乏な人」を意味するのではないかと考えられます。
《新たな支配層が形成される?》
ロボットリテラシーの高い人は、社会の上層に位置し、頭脳を駆使してロボットを開発し作る立場に立ち続ける一方で、リテラシーの低い人は、ロボットやAIに管理されて、人間でしかできない労働に従事するしかありません。
ほんの20年ぐらい前であれば、「人間にしかできない労働」とは頭脳労働だったのですが、今やAIが人間の頭脳を上回ろうとするとき、人間にしかできないという仕事は肉体労働に限定されそうです。肉体労働とは必ずしも力仕事(ちからしごと)を意味しません。機械にとっては苦手だけど、リテラシーを必要としない手作業を指します。あるいは人間が行う方がコストが低い労働を意味します。
その時代その時代の高度なリテラシーを身につけた人は、社会の支配層に到達できるというのは、歴史をみるとどの地域でも当てはまります。日本の律令から平安時代は、「漢字」「漢籍」を独占した貴族(男性。女性に漢字を教えなかった)となり、中枢を形成していました。文書リテラシー主義の伝統は、ことに司法や行政、立法、ビジネス、教育の世界でも、脈々と受け継がれてきました。日本のほとんどの試験(入試も資格試験も)はリテラシーの到達度を測定するためのツールであることを考えると理解しやすいと思います。
ヨーロッパでは、聖書と書き言葉を独占した人が長く支配層にありました。
いつの時代も、どの地域でも、単純に言ってしまうと、社会の上層部は頭を使って働き、下層の民は、身体を使って働くようになります。何だかロボットとAIが仕事を片付ける時代の新たなエリート社会のようです。ロボットリテラシーの高い人がトップの座にある新しいピラミッド構造ができあがるのでしょうか。
テクノロジーは今後はこれまでのペースを超えて進歩します。ロボットリテラシーを理解できる人とできてない人の格差がますます広がりそうです。
《技術革新が貧富の格差を広げる》
ロボットリテラシーの時代において、ロボットを操作できる人は少数に留まります。そうすると、高度なリテラシーを持つ人は富の大部分を獲得できそうです。だけど、そうでない人はロボットや人工知能にとって、実行の難しいような肉体労働や手作業を低賃金でやらざるをえなくなります。
もちろん、ロボットができない「付加価値の高い手作業」なら、ロボットリテラシーに負けることがありません。工芸品や芸術作品がそうです。
これまでは、リテラシーや高い技術を持っている人と、そうでない人の差が生み出す金銭上の格差はたかが知れていました。しかし、今後は、リテラシーはごく限られた人がだけが到達でき、大多数はそうでなくなりそうです。一握りの、高度なリテラシーを持つ人と残りの大多数の人とに二極化するのではないでしょうか。
ますます高度化するロボットリテラシーは難しすぎて、能力の劣った人がリテラシー度の高い人に追いつくのは至難の業になるかもしれません。急激な技術発展は、リテラシーの格差を大きく広げそれがそのまま貧富の格差につながりそうです。
ここから大事なポイントです。その圧倒的な格差を防ぐためにどうすればよいのか。
《教育の無償化、その財源》
一握りの支配層と圧倒的な被支配層という構図を避けるためには、弱肉強食の考え方を排し、人生100年時代、誰もがいつでも「学べる」という状況を早く作るべきだと私は思います。そのためには中等教育はもちろん、高等教育の無償化を実現させるべきだと思います。いずれにせよ、社会全体が考える問題であり、政治の課題です。
財源は?
ロボットリテラシーでお金を稼いだ企業や人が公教育の充実を助けることが必要だと思います。彼らが高い税負担をするしかありません。それを次の世代に広く再投資することで、2極化による社会の分断を防ぐのです。
社会を作るのは教育しかありません。家庭教育はすでに崩壊しており、学校教育もいつまでたっても寺子屋時代の対面式の授業や講義が幅を利かせています。いい加減、上の指示を忠実に伝えるという教育のあり方を変えてみませんか、と言いたくなります。
例えば、教員の立場からみても、YouTubeの各番組(プログラム)には、講義や授業でも生かせるものがいっぱいあります。実は教員が今、着目すべきはYouTubeの教育効果ではないかと私はニラんでいます。
もしかしたら、この時代の「良き教員」とは、うまくYouTubeを活用し、さらに、YouTubeを受講者(児童、生徒、学生)に活用させる人でしょう。教員も受講者(IT時代の先端にいる世代)から学びながら、受講者をリードできると思います。
そのためには、教員こそ仕事の一環としてYouTubeから学ぶ時間を持つべきだと思います。そのための教員研修も必要でしょう。玉石混交のYouTubeから良き教材となるものを探し当てるにはそれなりのノウハウ(リテラシー)が必須だからです。
子どもたちがYouTubeから自発的に学んでいるのに、教員が「YouTubeを視聴する時間がありません」という状況は間違っているように思います。
《「沈みゆくニッポン」などと》
ところで、サラリーマンが「ロボットや人工知能が私たちの仕事が奪う、だから、これ以上の技術の発達はちょっとね」と言います。このような考えに傾く気持ちは理解できます。「そんなに急がなくても、のんびり行こうよ」ということですね。
だけど、ロボットや人工知能によって仕事を効率化しなければ日本社会の豊かさが維持できなくなってしまうという面もあります。会社のおけるダラダラとした長時間労働、医療ロボット開発の遅れ、政府系のデジタル化の遅さ(コロナ禍の給付金の遅延)、教育現場のIT化の遅れ(教員の長時間労働)などを解消するには、今一度、現代の「読み書きそろばん」は何だろうかと考えてみることが必要ではないでしょうか。
「劣化するニッポン」「沈みゆくニッポン」などと言われっぱなしでよいはずがありません。
(2023年12月3日。宮武久佳)